TEL06-6976-6194

受付時間9:00〜17:00(土日祝休み)

お問い合わせ
TOP杉浦 勝昭 › 月別アーカイブ: 2011年7月

会長ブログ

月別アーカイブ: 2011年7月

11-063. 「上」ではない

 

社内的には、整理整頓の掛け声をかけて、

事務所の中で仕事の「見える化」を図ろうとしている。

 

そんな中でこんなタイトルの本が目に留まった:

「片づけなくてもいい!」技術 辰巳渚著 宝島社新書

 

整理整頓の本はたくさんあって、みんなおもしろいのだが、

この本に書いてあることでひとつ

「目から鱗」は「上をなくす」という発想です。

 

なんでも重ねてしまう。

物の上に物が乗ってしまう、乗せてしまう。

下に何があるか分からない、下のものを見ない・見えない。

 

なんでも物があれば、その「上」が出来る。

そしてその「上」に物を置く、

その「上」が「物置・ものをおくスペース」になってしまう。

 

そこで叫ばなければならない、

「それは「上」物をその上に置く「上」ではない!

それは「書類」なのだ! それは「ファイル」なのだ!

それは「机」なのだ! それは「地図」なのだ!

それは「資料」なのだ! それは「請求書」なのだ!

そこの上に置くべきものではないのだ!」

 

こういった意識を常に持たねばならないということ。

重ねて置いて隠してしまわない、隠れてしまわないように、

常に「見える」状態にしておく、

本来あるべき場所に常にあるようにする。

 

こんな細かいことの積み重ねが、整理整頓、仕事の「見える化」につながるのだろう。

 

 

11-062. 仏教長老のユーモア

 

スリランカ仏教の長老アルブモッレ・スマナサーラという人の「くじけないこと」角川SSC新書を読んだ。

 

融通無礙で生活の知恵的なことが多く、その意味でもホッと救われます。

 

 「この世で何が完璧ですか。

変わらないものなんかが、何かあるでしょうか。

不完全な自分が、不完全な知識で、不完全なデータに基づいて、

最終判断して安心するとは、どういうことでしょう。

 人生は「とりあえずの判断」にしましょう。

これが、くじけない方法です。

・・・

 人は、判断をしていかなければならない生き物です。

ならば、いっさいの判断を「とりあえず」の気持ちで捉えたほうが、

ラクに生きることができるようになります。

いろんな場面で「ファイナルアンサー」を求めらqれることがあると思いますが、

それは錯覚にすぎません。

変化し続けるこのせかいで、ファイナルアンサーはあり得ないのです。」

 

面白いと思ったのは、「笑いという潤滑油」として、こんなお話を書いていることです:

「離婚の原因は? と聞けば、

「結婚したことだ」と答えれば、楽しくなるとおもいます。」

スリランカ仏教長老の人生のユーモアです。

 

ふーん。

 

いかがでしょうか。

 

 

11-062. うごくもの うごかないもの

 

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

     うごくもの うごかないもの

       ー人・企業・不動産ー

        平成23年 7月号

       まぐまぐ ID 99461

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

 

  第一部 

 

 ○ 理想の事務所

 ○ 正々堂々、面と向かい合って・・・

 ○ 元気いっぱい 空堀商店街

 

  第二部

 

  ○ 自由、平等、博愛

 ○ 遺言書と遺書

 ○ ごきぶり退治

 ○ 縮んでいく~!

 ○ 「昌平塾」

 

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

 

  第一部

 

 ○ 理想の事務所

 

 現在理想の事務所の構想を進めています。

わが社にとって理想的な事務所というのはどういうものか、考えています。

「見える化」といった表現がよく用いられますが、

社内において行われていることが、そのままでいつも目の前で全員に見えて、

共有化できるという意味でしょう。

 

 わが社においても、ひとりひとりがなにをしているのか、どんな風に仕事をしているのか、

それがいつも見えるような事務所にしたい。

お互いのしていることが見えて・分かってこそ

協力しあえるのでしょうから、この点は大事だと思います。

 

 オープンで話し合える環境を作るためには

ひとりひとりが自分のやっていることをオープンにするよう

心掛けないといけないでしょう。

 

 最近はみんなパソコン中心で、パソコン経由だけで事足れりになってしまう傾向があります。

パソコンを使いこなすことはますます必要になりますが、ひとりひとりの肉声・声の調子、

ひとことひとこと、ちょっとしたコミュニケーションもますます大事です。

情報という言葉には「情け」こころが入っているんだよ、と言われたことがあります。

 

パソコンのようにこちらから見に行かなくとも、身に行くのを忘れても、

あちらから目に飛び込んでくるような「見える化」を行うにはどうすればいいのだろうか。

 

 それに、不動産業界というところは個人プレー部分が大きく、

隠すつもりはなくても、得てして担当者でないと分からない部分が多くなりがちである。

 

みんなで協力して、会社として対処していくことが等閑になりがちである。

 

 もっともっとそれぞれの扱っている案件が分かるように、

オープンにするようにするには、どうすればいいか。

「ホウレンソウ」を密に、そしてファイル・資料を共有化して、

理想の事務所に近づけていきたい。

 

 

 ○ 正々堂々、面と向かい合って・・・

 

 少し前からFACEBOOKというSNSに関心を持ってやり始めている。

若い人にソーシャルネットワークということでMIXIを教えてもらって

どんなものか知りたいと思い、勉強のためにやってみたが、

日本で広範囲に行われているMIXI

主に欧米を中心に急速に広がって話題となったFACEBOOKとの違いをつくづく感じる。

 

 今日本で使われている使われ方

そしてこれからみんなが特に企業を中心にビジネスにおいて使おうとしている使われ方と

従来欧米や日本において先行者が使ってきた使い方と大分異なっているようだ。

仲間との閉じられたコミュニティを中心に従来から楽しんできた人たちは

新しい傾向に苛立ちや戸惑いを覚えているようだ。

 

 入り方としてはビジネスに使えないかということではあったが、

新しいメディア(ツール)・表現手段としても興味がある。

新しいもの好きのミーハーなので、

あまり難しいことを言わずに、とりあえず食べようとしている。

 

 FACEBOOKでは実名で顔写真をのせるのが通例である。

(実際には実名である必要はないし、顔写真も本人のID写真を載せていないのも多い。)

 

一方、日本のMIXIは、多くの人が自分の名を隠して、フィクションの世界を楽しんでいる。

私自身は、小説や映画といったフィクションが好きだし、

フィクションで真実を伝える、といった発想に共鳴を覚えるで、

むしろ、プロフィールでの自己紹介は苦手で、

逆に一生懸命自分のことを説明しようとすればするほど

自分と自分が描く自分の姿との乖離にいら立つ方である。

 

 日本のFACEBOOKでも自分の写真を出さないひとも結構多い。

漫画を載せている人もいる。

メガネを載せたり、顔が分からないような写真もある。

 

 ただ、自分自身については、最近割り切るようになった。

もう正々堂々、できるだけ出してしまえ!

裸になったって、知れている、

隠し事をしたって、知れている、

自分で自分のことが分かっているつもりになったって、知れている、

自分だけが自分のことを分かっている訳でもないだろう、

と考えるようになった。

 

 会社のホームページを作るときにも議論があった。

社員ブログに写真と名前をだすのは問題ないかどうか、と。

しかし、ホームページを作ることの目的のひとつは

わが社をよく知ってもらうことで、

わが社が売り込みたいことのひとつは

社員そのものであること、

みんな社員として誇りを持って、毎日外に出て公明正大活動しているのだから、

当然ホームページでもその通り出すのが当然ということになった。

 

 FACEBOOKを通じて世界中のいろんな人に繋がっていく。

写真を見ているとやはりひとりひとりの人間の実在感が伝わってくる。

このような他人の顔ーFACES)と向き合うと

正面切って、堂々と四つに組んで対処していかないといけない気がする。

MIXIの場合なにか斜めに構えて、

横からちょっかいを出すように発表している感じである。)

 

 

 ○ 元気いっぱい 空堀商店街

 

 わが不動産仲介業の評判はあいかわらず芳しくないが、

関西不動産情報センター(KRIC)で集まる同業者は、みな勉強熱心であり、

誠実な仕事振りで、見習うことが多いので喜んで活動している。

 

 そのKRICで有志が集まって七夕の日に店舗についての勉強会を行った。

店舗を出店している企業から戦略や実際にさがしている店舗(不動産)の話をしてもらっている。

当日説明いただいた企業は、

新しい駐車場運営の提案をする駐車場機器メーカー、

従来は業務用スーパーを展開してきたが、新業態として飲食ビュッフェをこれからやろうとする会社、

ドラックストアを全国展開している企業でした。

いずれも直接具体的な話を聞けて貴重な時間でした。

 

 そのときに、「プリンセス・トヨトミ」で活性化した「空堀商店街」振興組合の理事長から

商店街活性化についてのお話を伺いました。

なかなかおもしろい理事長で、商店街で「宇治茶園」というお店をやっています。

(実をいえば高校の同級生で、この高校には変な人ばかり集まっているのですが)

映画の話や商店街活性化の話はしてやるから

その代わり「煎茶」の飲み方についてお話と実演する時間を作れ、

という条件でした。

 

 商店街での映画撮影場所の地図を作って宣伝・広報して

土日の商店街の賑わいは大幅に向上したそうです。

若い人や日本全国からの関心度・注目度が高まり、

店舗の借り需要が急上昇、実際に全体の活気が上がっていて

「からげんき」ではないようです。

周辺の不動産の価格も上がっていくようです。

 

 その後、理事長から「煎茶」の飲み方についてのレッスンを受けましたが、

自慢するとおりのおいしいお茶を試飲して、お茶のお土産をいただきました。

  

 

   第二部

 

  ○ 自由、平等、博愛

 

 714日はフランス革命記念日。

フランスでは国民祝日で、国をあげての特別の日である。

 

 フランスで生活してやっと自分を見出し生まれ変わったように感じた私にとっても思い入れのある祝日である。

お葬式で死んだ自分のことを語られるのを避けるために、生きているうちに楽しく一緒に時間を過ごしたいという趣旨で、

「生前祭」と称して年に一回友人たちを集めてパーティをしていた時期がある。

(いつまでも続くのは良くないと考え、どこかで止めないと止められなくなると思い、数年前に止めた。)

その「命日」として選んだのが714日パリ祭の日であった。

 

 さて、そのフランス革命のキャッチフレーズ「自由・平等・博愛」を

最近身をもって体験することが出来た。

膝の骨を折ったことを契機として・・・

 

 まずは「自由」の有難み。

1ケ月締め付けられていた左足の膝のコルセットと

使い慣れない二本の不自由な松葉杖から解放され、

ぎこちないながら自由に歩けるようになりました。

この解放感!

 

 足の骨折では周りに迷惑をかけ気兼ねしていました。

長女に車を運転してもらい、手荷物も自分で持つことができず、靴下を履くのに手伝ってもらわなければなりませんでした。

家族といえども、他社に依存しないといけない不自由さ、申し訳なさ、

この依存症で、どうしても自分を卑下するような感じになり、

まわりの人と対等でなくなってしまいます。

すこしずつ家の手伝いもでき、対等・平等の地位を回復しています。

 

 この間まわりのやさしさをつくづく感じました。

有り難いことです。

みんな気にしてくれます。

かまってくれます。

こちらとしては甘えてしまいました。

まぁ、少しの期間ですし、事情が事情ですので、

なんとか許してもらえるでしょう。

 

 このように、フランス革命の精神「自由・平等・博愛」を

骨を折ったお陰で身をもって体験しました。

 

 

 ○ 遺言書と遺書

 

 母親と父親をこの数年の間に亡くして、いろいろな手続きを経験した。

遺言書、遺産分割書などという言葉もスムーズに出てくるようになった。

そういった一連のことが終わってみると

親の世代から今度はわが身に移り変わってきたことに

否が応でも気が付かざるを得ない。

 

 財産を受け取る側から、贈与を受け取る側から

遺産を残す側に、贈与をする側に、手放す側に

つまりは、先に死んでいく側に押し出されたのだ。

(といっても、時間差で先にいくというに過ぎないので、

先に行って待ってるよ、とみんなに言いたいのですが・・・)

 

 親の世代が終了したので、今度は自分の番だ。

上から流れてくる分には、文句を言いながら受け取ればよい。

今度はどのようにして受け渡ししていけばいいのだろうか。

 

 正直言えば、残った人が勝手にしてくれればいいと思う。

真面目な話、死んだ後のことまで指図するのがいいことなのだろうか。

果たして指図できるのだろうか。

「死人に口なし」という表現は特定のことを言っているのかもしれないが、

死人は口だしできるのだろうか。

死んだ人間の意志を、死んで主体のないモノノ意志を、認める根拠はどこにあるのだろうか。

法的根拠はあるのだろうか。

 

 死んだ人間に投票権はないのに自分の財産の処分権だけはある、

死後もこの権利が残るようだ。

不思議な気がする。

遺言書を書くのはどうも気がすすまない。

 

 それに反して、遺書というのは好感が持てる。

「すいません。私はこんな悪いことをしました。

犯人は私です。申し訳ありません。

死んでお詫びをいたします。」

死後にどうのこうのということもなく、なんの期待もしないで、

生まれてきて悪事を行って死んでいく自分の業を、

申し訳ない、と残っている人に告げるだけ・・・ 

 

 遺言書はどうも傲慢な気がするのだけど、いかがでしょうか。

 

 

 ○ ごきぶり退治

 

 ごきぶりほどみんなから毛嫌いされている生き物はいないのではないでしょうか。

生理的に嫌悪感を覚えるという声ばかりが入ってきます。

他の生物と比較してなにか特別なものがあるのでしょうか。

わたしの家族のテンションの高さはかなりの家庭でも共有されているのではないでしょうか。

 

 昔は「あぶらむし」と言っていましたが、

いまは「ごきぶり」というほうが多いようです。

ごきぶり、あぶらむし、といっても同じものを想定しているのかどうか。

あなたが知っている「ごきぶり」の大きさはどれくらいでしょうか?

何センチくらいでしょうか?

地方によって、小さいのも大きいのもいるようです。

フランスではあんな大きな「ごきぶり」はいない、と断言するひともいました。

あなたの知っている「ごきぶり」は空中を飛ぶでしょうか?

あなたの方へ飛んできて、あなたの顔にぬるっと触れ合うことがありましたか?

 

 ごきぶりのお話です。

ごきぶりの世界のお話をすることもできるでしょうし、

ごきぶりから世界のお話をすることもできるでしょう。

 

 2つ、3つお話をしたいのです。

 

 1つ、フランス語辞書で「ごきぶり」を引くと「cafard」とか「blatte」といった「言葉」がでてきます。

もちろん、これが日本で遭遇する「ごきぶり」(日本のどこで?)と同じかどうか

あなたの方に飛んでくるかどうか、分かりません。

ただ辞書には「気が重い」とか「憂鬱だ」というときに

「わたしは cafard を持っている j’ai le cafard」という表現があると記載されています。

やっぱり「ごきぶり」は憂鬱なんだ、と分かります。

 

 2つ、深夜ごきぶりが出ました。

辛うじて壮絶な肉体戦を制してごきぶりを退治することが出来ました。

しかしわたしの家族の恐怖は収まりません。

家の中にごきぶりの巣があるのではないか、

ごきぶり家族が繁殖しつつあるのではないか、

それとも、外から侵入してくるのか、

だとすれば、いかにして防ぐことができるのだろうか。

あらゆる進入路を閉鎖しなければならない。

(ビバリーヒルズの高級住宅地の警備状況を思い浮かべました。

バリ島のリゾート地の警備状況を思い浮かべました。

そして、最近見た映画「LEMON TREE フランス語タイトル les citronniers」を思い出しました。

イスラエルとパレスチナ占領地区の境界でのお話です。

イスラエル国防大臣がお隣に引っ越してきたので

その安全確保のため、高い壁が廻らされ、

緑豊かにレモンの実をつけていたレモンの木々が惨めな背丈にまで切られてしまうお話です。

自分を守るために外界との接触から切断され、

閉じられた空間に自ら囚われ人になってしまわざるを得なくなります。

だからといって、「ごきぶり」との共生を模索しようと提案しているわけではありません。)

 

 3つ目、そう、こんなこと・・・

一匹のごきぶりを目にしての恐慌、パニック、

そこから「怖いもの見たさ」の連想です。

マゾ的発想です。

 

 もしごきぶりが複数で・・・

何匹も、何匹も現れたら!

ごきぶりの大群が家の中を動き回ったら・・・!!

ごきぶり大群がこちらに向かって飛んできたら・・・

 

 そんな想像をしたら

あーあ!

やはり恐怖を覚えました。

 

 朝ご飯を食べた後、

「ごきぶりほいほい」を3つ作成して、

台所とピアノの下と寝室に設置しました。

 

 

 ○ 縮んでいく~!

 

 毎年の健康診断で体重が増えたり減ったりするのは

仕方がありません、許すことといたしましょう。

 

 しかし、毎年身長がすこしずつ削られていくのは

どうも納得いきません、だんだん地球に吸い込まれて

終いに自分がなくなってしまいそうな気がします。

 

 「前回も小さなったのに、今年もまだ身長が減ってしもてるわ。」

と、同じように健康診断を受けた家内に話すと、

「わたしも減ってるわ。あの機械、おかしいのと違う。」

そうだ、機械がおかしいのだ。

われわれは元のままか、背筋を伸ばしてさらに成長しているのに、

おかしいのは機械なのだ。

 

 二人はそんな風に納得、合意の上、医院を後にし帰宅しました。

 

 

 ○ 「昌平塾」

 

 中学の同窓生に誘われて

大阪国際センターで行われている

「昌平塾(中国古典)」に出席しました。

ものすごく面白かったのでお勧めいたします。

 

 久しぶりに学校の授業に近い形式で講義を受けましたが、

内田昌之先生の活気溢れる話し振りと

よく準備された進行振りに

学校の歴史の授業がこんな風だったら、

もっともっと歴史の授業に興味を持ったのに、

と悔やまれるほどでした。

 

 講義の内容は中国の「春秋戦国時代」のお話で、

歴史の教科書でかすかに習っているはずですが、

受験勉強でおそらく苦労していろいろ覚えたことだったでしょう。

(今はなにも残っていませんが)

その時代のことを、実に分かりやすく教えてもらいました。

準備されている資料が懇切丁寧で実に分かりやすいのです。

地図があり、写真があり、年表があり、

系譜があり、横山光輝の漫画があり、

おまけにオリジナルと思いますが、「春秋戦国新聞」なるものが資料として入っています。

まさに、紀元前686年を臨場感あふれる報道記事にしているのです。

 

歴史的事象が人間たちの行動の集積として感じられ

生き生きと描き出されるのは、話し手の知識豊かさ・理解の深さ・情熱のせいでしょうか。

 

月に一回のペースで開講されているようで、

昼の部は 午後2時から大阪国際交流センターで

夜の部は 夜6時半からクレオ大阪中央でおこなわれています。

 

8月は 昼の部 8月13日(第2土曜) 夜の部8月16日(火) 廉破と藺相如

9月        9月11日(第2日曜)     9月13日(火) 孟子

の予定らしいです。

 

推薦いたします。

 

 今回はこれくらいにしておきます。

最後までおつきあいありがとうございます。

 

◎うごくもの うごかないもの 人・企業・不動産

  のバックナンバー・配信停止はこちら

http://archive.mag2.com/0000099461/index.html

11-061. 7月14日 巴里祭

 

毎年7月14日がやってくる。

なんていうことのない日かもしれないが、

私にとっては思い入れのある日になる。

 

フランスでは、フランス革命の勃発した日として記憶され、

国民祝日として祝われ、シャンゼリゼでの行進、夜の花火、広場での大衆のダンスパーティ・・・

 

フランスで自分の人格の大事な部分が形成されたと認識しており、

フランスから日本へ戻ってきたとき、

ふたつ日本で広めたいと思ったものがあった。

 

ひとつは、「巴里祭」、

フランス革命の精神「自由・平等・博愛」を大衆レベルで表現・発散している光景を

好ましく体験した。

くるくる回転の速いワルツ、あるいはジルバ・・・

おじさん・おばさんが広場で夜を通して踊る姿、

市民社会が繰り広げられている気がしました。

 

もう一つは、「頬と頬をくっつけてする挨拶」bise

ちょっと親しくなると、友達同士、特に若い学生では

女の子同士だけでなく、男の子と女の子で、

こっちの頬とあっちの頬とくっつけて挨拶する。

日本から行って間もないころ

女の子にこんな風な挨拶ができるのが

うれしくて仕方なかった。

 

その体験を知り合いの日本人に味あわせてやろうと

7月14日の催し物で企画した。

「キス」という言葉、日本語、英語、フランス語の説明、

肉体からの距離感の国民性の違い、

そんなことを分かってもらおうとした。

うまく説明ができなかったが、

特にヨーロッパ人でもみんな一緒でなく、

フランス人とイギリス人、またほかの国の人とでは

いろいろ違うということも伝え忘れた。

 

CIMG2707.JPG

11-060. 勝ち切ることの難しさ

 

これはうまいこと行った、と思った。

こちらが覗いたところを相手が継がないので、相手の石を分断、

大きく地を作ることができた。

完全にこちらに有利に展開していた。(囲碁の話です。)

ところが勝っている勝負を完全に最後まで勝ち切ることができるかできないかによって

結局強いか弱いかが決まるようだ。(そんなこと、分かっている)

ところが、実際には変な勝負をしてしまい、負けてしまうという屈辱。

 

大手の不動産会社と取引をしたときのこと

お客さんはこの物件で決めました、と言っているのに

その担当者は、その時点でも他にお客が探しているのに該当する物件が出てこないか

調査の手を緩めなかった。

最後まで何が起こるかわかりませんから、と言う

彼の用意周到さ・用心深さに、そこまでしないといけないのか、と

ついていけない気がしたが、今にして思うと

勝ち切るためには本当に万全の注意を払い、

決定的なところで決定打を放たないといけないのだ、

そんなことを再確認しました。

 

おそらく彼も過去に苦い経験をしているのだろう。

最近投稿された記事

カテゴリー

月別アーカイブ