14-028. 川柳の季節
2014.08.27
同じ日に川柳の本を2冊紹介された。
一冊は 公益社団法人全国有料老人ホーム協会;ポプラ社編集部編の「シルバー川柳3 来世も一緒になろうと犬に言い」で その本から12句書き抜かれて郵送されてきた。
「先寝るぞ」「安らかにね」と 返す妻
藪医者め みんな老化で 片ずける
年上が タイプだけれど もういない
みんなうまいなぁ、と感心する。
もう一冊の方は知り合いの弁護士先生が参加している川柳の会の出版したもので
そのなかからこれまた勝手に引用させてもらうと:
弁護士も産めよ増やせのツケがきて
(弁護士の数が増えて若手弁護士の就職難の話をしたばかりだったの)
俺一階妻は二階でまだ夫婦
(目に浮かぶようで面白い)
川柳を楽しむ季節です。
14-027. 「寝たきり」にならない生き方・やり方 ファイルについて
2014.08.9
14-027. 「寝たきり」にならない生き方・やり方 ファイルについて
「老犬を寝たきりにさせない飼い方」というセミナーに出席して
いろいろ教えられ、考えさせられた。
人間の「寝たきり」も大変だ。
できることなら「ピンピンコロリ」という終わり方が望ましいように思う。
「自立」していることはなかなか大変なことなのだ。自分でいつも立っていること、たいていの格闘技は、地面に体をつけられると、つまり土をつけられると負けることになるし、球技でも体が地面に倒れてしまうとプレーから離れなければならない想定が多い。
「寝たきり」の状態にならないよう万全を期すべきなのだろう。
そんなことを考えていて、仕事のことを思った。事務所に山積みされているファイルのことが思い浮かんだ。
ファイルを「寝たきり」にしてはいけない。
重ねたファイルは見ない。
ファイルは立てないといけない。
「寝たきり」ファイル撲滅運動を会社で推進しよう。
「生きているもの」と「死んでいるもの」を分別し、「生きているもの」を「寝たきり」でなく「元気なもの」へと「自立」させることを心がけていこう。
さぁ、「寝た子」を起こすところから仕事にとりかかってみようか。
14-026. くさか 日下 孔舎衙
2014.08.7
14-026. くさか 日下 孔舎衙 安岡正篤
「孔舎衙」を「くさか」と読める人は日本で何人ぐらいいるのだろうか。
東大阪の石切のあたり山の麓あたりの古い地域である。
前からなんとなく縁があったのだけれどあまり詳しくは知らなかった。
知っていたのは囲碁の井山六冠王がこの地域の出身ということくらい。
最近もうひとり有名人が住んでいたことを教えてもらった。
安岡正篤である。
孔舎衙小学校を出ているという。
14-025. 一緒に食事をしましょう
2014.08.3
14-025. 一緒に食事をしましょう
8月3日の毎日新聞を読んでいるとこんな記事に出くわした:
サル化する人間社会
京大の山極寿一教授の「時代の風」というシリーズものである。
ちょっと長いが引用させてもらう:
サルの食事は人間とは正反対である。
群れで暮らすサルたちは、食べるときは分散して、なるべく仲間と顔を合わせないようにする。
数や場所が限られている自然の食べ物を食べようとすると、どうしても仲間と鉢合わせしてけんかになる。・・・
けんかの種になるような食べ物を分け合い、仲良く向かい合って食べるなんて、サルから見たらとんでもない行為である。
なぜこんなことに人間はわざわざ時間をかけるのだろうか。
それは、相手とじっくり向かい合い、気持ちを通じ合わせながら信頼関係を築くためであると私は思う。
・・・
ところが、・・・近年の技術はこの人間的な食事の時間を短縮させ、個食を増加させて社会関係の構築を妨げているように見える。
自分の好きなものを、好きな時間と場所で、好きなように食べるには、むしろ相手がいないほうがいい。
そう考える人が増えているのではないだろうか。
でも、それは私たちが食事によって育ててきた共感能力や連帯能力を低下させる。
故人の利益だけを追求する気持ちが強まり、仲間と同調し、仲間のために何かしてあげたいという心が弱くなる。
勝ち負けが気になり、勝ち組に乗ろうとする傾向が強まって、自分に都合のいい仲間を求めるようになる。(引用終わり)
結論:さぁ どこか一緒に食事にいきましょう。
どこかいい料理屋かレストランに招待いたしますよ。
お声を掛けていただいたら、どこへでも喜んでお伴します。
14-024. 期待外れ
2014.08.1
14-024. 期待外れ
ちょっと大げさになるが、心の基本的なところで「期待」することを禁じるようにしている。
何かをしたとしても、それについて人からなにかしてもらえるとか何かしてほしいと思うとか、人に対して「期待」することは止めるようにしている。「期待」しないように心がけている。
天神祭の時2時間ほど船上から花火を見て遅くなって疲れ切ってやっと地下鉄に乗って南森町でやっと座ることができた。
ところが天満橋でもまたどっと浴衣姿の人たちが入ってきた。
ドアすぐの席に座っていた私のすぐ前にも人が来た。
若い二人連れで、なにげなく女性に目をやるとお腹が出ているのがわかった。
前にいる男の方に「座りますか」と声をかけて席を譲った。
女性は男の方を見たまま腰を下ろした。
視線は男性の方を向いたままでこちらを向くことはなかった。
ふたりともこちらと視線を合わすことなくもちろん言葉のやりとりもなかった。
感謝をしてもらうつもりはなかった。
こちらの心境の具合で勝手に席を譲ったのだし、感謝を期待したのではないはずだった。
ところが実際に感謝もされず相手からなんにもないと分かると、そんな状況を前にしてひそかに何かを期待していた自分がいて、そして結局そんな自分が「期待外れ」だったことに気付かされた。
期待しないはずが期待している、ああ、なかなか自分の思い通りには悟れないものだ。
期待外れ、自分への期待外れ。
人への期待外れなどを言うまえに・・・