13-018. 二つの芽
2013.05.14
13-018. 二つの芽
昨日
二つワクワクするようなことがあった。
一つ目は会社のご近所の鍍金工場を訪問したときのこと。
去年自宅の柿を持っていったら、美味しいとことのほか喜んでもらった。
確かに真っ赤に大きく熟した甘柿なのだが、種も大きい。
その種を植えておいたら、二つほど芽を出したというお話である。
まだこれぐらいよ、と親指と人差し指で教えてくれた。
通りすがりで届け物をする時間しかなかったので、次のときにゆっくり写真を取らせてください、とお願いした。
(よって 残念ながら写真はなし。次回に乞うご期待)
二つ目は
「国際スター誕生」の秘話である。
これまたご近所企業のお話ですが、
「エンジニア」さんは破竹の勢いの会社さんである。
「ネジザウルス」で大いに注目を浴び、受勲の栄に浴するという。
「ムッシュ・マグニ」という新製品のプロモーション映画にわが社のフランス人研修生アリス・コルニヨンさんが出演することになったのだ。
高崎社長に正しいフランス語を教えるという極めて難しい(?)役柄を見事に演じた。
まもなくU-TUBEなどで世界中公開されるので、わが社の研究生は国際的スターへとデビューすることになる。
国際スターの芽がわが社の土壌から出てきたということである。
そのうち日産のゴーンさんから工場用地の注文を受けるようになるかもしれない。
夢は羽ばたく、遠くまで。
ちょっと遠く過ぎるかも・・・
13-017. やっぱり新聞は読んだほうがいい
2013.05.13
13-017. やっぱり新聞は読んだほうがいい
新聞を取らない家庭が増えていると聞く。
テレビがあり、インターネットがあり、スマホがあり、
情報が随時入ってくるので十分である、不自由がない、と考える人も多いようだ。
しかし、毎朝新聞を隅から隅まで読むことはないにしても、
ざっと一覧するこの習慣は大事に思える。
時代の移り変わりとかいう曖昧な説得で納得するのではなく、
なぜ新聞を読むのがいいことなのだろうか、ふと考えてみた。
新聞を毎朝読むのは、毎朝世界一周していることになるのではないか、そんなことを思った。
デジタル媒体の弱点のひとつは、その一覧性の欠如だろう。
個別情報、コマギレ情報は豊富に提供されるが、それらを総合的に組立ていく作業はまだ不得意ではないだろうか。
新聞が提供しているのは世界地図とか地球儀にあたり、
ウエブが提供しているのは住宅地図になるのではないだろうか。
お隣ご近所の様子は住宅地図で詳しくわかるが、お隣の国やこれからの社会の移り変わりについて俯瞰的に見ていくのに必要なのは世界地図であり地球儀だろう。
やっぱり新聞を読んで欲しい。新聞を購入して欲しい。
情報にはお金を払って欲しい。
降りかかってくる情報を受けるだけでなく、こちらから情報を求めていってほしい。
自分に必要な情報を求めて欲しい。
13-016. 「和」について
2013.05.12
13-016. 「和」について
「同一」のものがたくさん集めてもその総和は「和」にならない。
1+1+1+・・・ ≠ 「和」
1+1+1+・・・ = 1
「同一」のものをいくつ掛け合わせてもその積は「和」にならない。
1 x 1 x 1 x ・・・ ≠ 「和」
1 x 1 x 1 x ・・・ = 1
「和」を成立させる基本的な要素は 「違い」である。
異なったものが並立することによって「和」が生み出される、作り出される、醸し出される。
4人のテノールが、同じクローン人間さながら、同じ声で同じ旋律を見事に歌ったとしても、そこには「調和」「ハーモニー」は生まれない。
ジョンとポールとジョージとリンゴが、それぞれ勝手に自分のパートを歌うとき「ハーモニー」が生まれ「和音」が耳を喜ばせる。
50のトランペットが一斉に見事に同じように同じ音を吹奏すれば、一気に前進するためのアドレナリン増幅の作用はあるだろうが、人の精神を和やかにするとは限らない。
チェロの弦の音、クラリネットの響き、打楽器の震え、個性豊かな多数の楽器がそれぞれ異なった音色で異なったメロディーを奏でることで「ハーモニー」が醸し出される。響き合うことで「調和」ができる。
となりの演奏者の出す音を耳にしながら、自分のパートを演奏する。
そして、それを「ハーモニー」へと集約する指揮者がいる。
指揮者はそのような「差異」「違い」をもっともよく理解できる人だ。
「差異」「違い」の幅を理解し、「調和」へまとめられる人だ。
「差異」「違い」の幅、震え、これが個性ではないだろうか、生きていることの意味ではないだろうか。
コミュニテイの中でのひとりひとりの動きではないだろうか。
こんなことを考えた。
13-015. クールビズの胡散臭さ
2013.05.10
13-015. クールビズの胡散臭さ
以前から「クールビズ」に対して違和感を持っていた。
なにか「胡散臭い」ものを感じていた。
ただそれをどう伝えればいいか、よくわからなかった。
今なおきちんと語れるかどうか自信はないが、ちょっとまとめてみようと思う。
通常「クールビズ」で言われていることは、「ネクタイを外すこと」「通常背広姿で仕事をしている人達がネクタイを外して仕事をすることが許される」そんなことだろう。
まず期間を決めて、5月から9月まで、暑いシーズンにはネクタイをしないでもいいですよ、そんな感じでしょう。
中学生の制服の衣替えみたいに、冬服から夏服みたいに、誰がかけた号令か知りませんが、はい一斉に「クールビズ」というわけです。
昨日まで胸にあったネクタイを取り除いて、はい今日からこんな格好で失礼いたします。
なんのために? 冷房の電力節約? 電気代節約のため? 関電のため? だけど電力消費が減ったら関電は儲からないだろうに。
「ネクタイ」排斥運動のような「クールビズ」、ネクタイ関連業界から損害賠償訴訟が起こらないのが不思議だ。
なんで「ネクタイ」を目の敵にするのか。
エルメスのネクタイを愛用する私には、まずそこが分からない。
海外旅行をする時に他人にはお土産物は買わず、自分へのお土産物だけを買って帰る私としては、毎日着用するネクタイを免税ショップで買ったり訪問地の美術館・博物館・観光名所で買うのが唯一のショッピングである。
男のおしゃれってほかにそんな大したものがないではないか。
みんなそのネクタイを外して仕事場へと出かけて行く。
今まで辛うじて首元が引き締まってきりっとしていたのが、なんかちょっとだらしなくはないか。
本来あるべきものがなくなって、ちょっと間が抜けていないか。
もともとなくていいものなら、なくしてしまえばいいではないか。
暑いのが嫌なら、背広なんかやめればいいではないか。
背広でない涼しい礼服、仕事服、ビジネスファッションを作ればいいではないか。
沖縄でみんなが納得する仕事着、フィリピンのひとが着ている正式な服装、マレーシア航空シンガポール航空のクルーがきているような涼しそうで洒落たコレクションを発表できないのか。
ネクタイのない首元、だらしなく開けっ放しになった間の抜けた首元、もしネクタイが必要ないというなら、もうちょっときりりとしたタイプのワイシャツを創作することはできないのか。
「クールビズ」の発想の一番基本的なところで嫌なのは、その「引き算的発想」である。ちじみ的発想、後退的発想である。
省けばいいような節約志向である。
この際、立派なかっこいい男の姿をイメージして、男のオシャレを創りだす、新しいファッションを生み出すような想像力そして創造力を喚起する表現とは全く「クールビズ」は程遠い。
ネクタイをするのは悪いことなのか。
ネクタイをしないことで一体何をしているのか。
ほかの人と同じことをしているだけなのか。
何のためにネクタイをしないのか。
なんのためにネクタイをするのか。
「クールビズ」という言葉、「クールビズ」という、あるときに(そんなに歴史のある現象でもないだろうが)ある人が言い出した(どの程度議論されどの程度合意されたか知らないが)こんな奇妙な習慣というか風俗というかこんなものを、なんとなく受け入れてしまうのは、へそ曲がり人間としては、どうも納得がいかぬ。
夏になり、あまり暑くなってからでは、お前 ちょっと 頭冷やせよ と言われそうなので、まだまだ頭がカッかしない5月の今に書き留めておく。
良識者、常識者のビジネスマン諸氏のご意見を伺いたいものだと思う。
最後に、ネクタイ 頑張れ。