10-097. 値切る
2010.09.26
10-097. 値切る
「値切る」のには抵抗がある。
中国で買い物するときには、あるいは他の国でもそうらしいが、
とにかく言われた値段の半額から交渉を始めないといけないらしい。
そんなアドバイスを受けた。
しかし、実際にはなかなか難しい。
値段交渉を楽しむような心境にはなれない。
欲しいものならどうしても交渉力が萎えてしまう。
欲しくないものを安ければ買うよ、と言って買うつもりはない。
必要もないのに、欲しくもないのに、安いから買っておこうということは考えらえない。
こちらが価格を提示して値切られる場合がある。
支払う方は常に高いと思うのだろうか。
高いと感じるのは当たり前のことなのだろうか。
これが買えてよかった、ありがとう、という販売はないのだろうか。
報酬あるいは物の価格というのは、感謝の表現ではないのだろうか。
A と B とが繋がり、流通が行われたことの不思議さ、
これに対する感謝の気持ちをいかにして表現するか、
それが価格に反映されているのではないだろうか。
自分が購入したと思うもの、自分がほしいと思うものの値打ちを下げて、
それを保有するというのは、自分で自分の値打ちを下げる行為ではないのか。
結局自分で自分の首を絞めるのと同じことではないのか。
高価であっても、
できるだけ高級でおいしいものを食べ、
いいものを着て、見てくれカッコよくし、
文化的教養を付けるために(実際教養がついているかいないかは別にして)散財し、
高度なものを創造してくれる人々に対して感謝の念を持って支払いたい(資金を提供したい)、
もちろん、自分の分をわきまえた範囲で、
という条件付きではあるが・・・
「値切る」話から、大分話が逸れた。
10-096. 高安能
2010.09.25
10-096. 高安能
八尾の高安の里はどうも能に関係が深いらしい。
詳しくは不勉強にして知らないが
高安流という流派が存在するらしい。
十月と十一月催し物が開催されるという案内状をいただいたので
ご紹介します。
ぜひご参加ください。
10-095. 「賢い集団の特徴」
2010.09.25
10-095. 「賢い集団の特徴」
面白そうな本なので買って読んでいるところです。
タイトルは、<「みんなの意見」は案外正しい>ジェームズ・スロウィッキー著 角川文庫
「集団の知恵」を例証しようという試みのようです。
そのような「集団の知恵」が機能するためには、
四つの要件が満たされている「賢い集団の特徴」である必要があります。
その四つの要件が
1)意見の多様性:それが既知の事実のかなり突拍子もない解釈だとしても、各人が独自の私的情報を多少なりとも持っている
2)独立性:他者の考えに左右されない
3)分散性:身近な情報に特化し、それを利用できる
4)集約性:個々人の判断を集計して集団として一つの判断に集約するメカニズムの存在
続けて引用します:
この四つの要件を満たした集団は、正確な判断が下しやすい。
なぜか。
多様で、自立した個人から構成される、ある程度の規模の集団に予測や推測をしてもらってその集団の回答を均(なら)すと、一人ひとりの個人が回答を出す過程で犯した間違いが相殺される。
言ってみれば、個人の回答には情報と間違いという二つの要素がある。
算数のようなもので、間違いを引き算したら情報が残るというわけだ。
これを読んで、独裁制の国での判断ということを思いました。
同時にわれわれの会議の有効性ということを考えました。
会議をして議論を喚起し、みんなで協議の後、有効な結論を出そうとする場合、
みんながひとりひとり自律した意見を持ち、最終的にそれを集約できる会議の進め方ができなければならない、ということです。
いろんな会議に出席して、単に意見を述べる場合があったり、
あるいは会議を主催したりする場合があったり、
そんな経験を省みて、どのようにすればよいか、
いろいろ考えさせられる文章です。
10-094. 週明けの憂鬱
2010.09.21
10-094. 週明けの憂鬱
週明けの朝、張り切って仕事をしようと思っている。
新しい一週間を新しい気持ちで、さぁ!がんばるぞう!という
意気込みで事務所に向かう。
朝のミーティングを元気よく行う。
新鮮な気持ちで、仕事に取り掛かる。
週明け第一に明らかになる数字、結果が知らされるもの:
それは本社緑橋のコイインパーキングの集金状態である。
これがまた・・・
ずっとた・い・へ・ん・である。
以前は10万円を超えていたのが
最近は車離れ、近隣の値下げ・・・どうも悪条件ばかりが重なっているようで
・・・5万円。
50%減!!!
今週は月曜日が祝日でもあり、8日間にして先週より 減! 減! 減!
デフレの時代とはいえ・・・
あぁ、週明けの憂鬱はまだまだ当分続くのでしょうか?
10-093. 遺言の依って立つところ
2010.09.15
10-093. 遺言の依って立つところ
今日もセミナーで「遺言」がとりあげられていました。
「遺言」を書くことが流行しているらしい。
「遺言」を書くことがいいことのようにもてはやされているようです。
どうも納得できません。
まずなんで「遺言」というものが認められるのでしょうか。
「故人の意思}?
死んだ人間がなぜ死んだあとの事まで指図できるのでしょうか。
まずもってこれが分かりません。
「死人に口なし」というではありませんか。
自分が死んだあとの事までなんで口出しするんですか。
なんで口出しすることができるのですか。
そんなこと認めるのはおかしいのではないでしょうか。
「死んだら黙ってれや!」ということではないのでしょうか。
生きてる間にちゃんとやるべきことをやっておけへんから
そんな風になるのん違うのん。
生きてる時に出来へんで、死んでからエエカッコしようとする根性は良うないワ。
自分の財産やから勝手に出来るということなんやろか。
死んでから地獄へも天国へも持っていかれへんねんから
生きてる時にちゃんとしとかなあかんがな。
それをせえへんかたからいうて、遺族が争っても、それはシャアナイん違う?
本人が悪かってんやろう。
まぁ、争うねんやったら争うたらエエのん違いますか。
どこの国でも遺言は法的に認知されているのでしょうか。
死んだ人間の書いた財産処分方法なんて、
死んでからも所有権が維持されるのもおかしな話やし、
本当に自分のものなんやろうか、死人のものなんやろうか、
死んだらもう権利なんてなくなれへんの。
遺言によって所有しているものを死後も指図できるのが本当なら
なんで遺留分なんていう考えが出てくるのか。
自分のものは死後も自分で勝手に出来るのであれば
遺留分なんていう考えを導入するのは矛盾しているでしょう。
好きなようにやれ、これが本来の姿でしょう。
遺言を書いた方がいいケースを専門家が説明してくれます。
子供がいない夫婦の場合、自宅しか財産が無くて遺言がないと家が共有になったり、住み続けられなくなる場合、などなど
だけど、これは法律の不備を遺言が補っているだけで
みんなが納得できるように法律を改正すれば済むことではないのでしょうか。
遺言を書くのがその人の家族にとって最良の方法であると考える昨今の風潮には、
どうも納得できません。
財産が自分個人だけに所属して死ぬまでだけでなく死んだ後まで自分のものだ、
根底にあるそんな考えが、どうも納得いきません。
生きてる間にみんなにあげられるように、贈与できるように、制度を変える方がいいのではないでしょうか。
贈与税を10%くらいにすれば、年寄りは若い人にいろいろあげて、
若い人も楽になり、消費を増えるのではないでしょうか。
遺言から話が飛んでしまいました。