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2019.05.30
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31-010 釜山へ行こう!
2019.05.25
31-010 釜山へ行こう!
釜山へ行こう
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Busan;부산;釜山;プサン
位置
地図
ハングル: 부산광역시
漢字: 釜山廣域市
統計(2015年)
面積: 766.12 km2
総人口: 3,448,737[1] 人
男子人口: 1,701,347 人
女子人口: 1,747,390 人
人口密度: 4,457.5 人/km2
1930年の釜山松島ビーチ
釜山の山城(金井山)
水営区の広安里ビーチ
釜山広域市(プサンこういきし、韓国語: 부산광역시、英語:Busan)は、大韓民国南東部に位置する広域市。韓国第2の都市である。対馬海峡に面し、古くから日本と朝鮮半島とを結ぶ交通の要衝として栄えてきた港湾都市である。首都ソウルに次ぐ韓国第二の都市として、政治・経済・文化の面で重要な役割を担ってきた。
朝鮮半島南東端に位置し、韓国の主要都市中で最も日本の近くに位置する。対馬海峡西水道(朝鮮海峡、韓国では釜山海峡)を挟んで対馬を望む事ができ(海雲台区の冬柏などから肉眼で見える日が年間約60日あり)、下関市・福岡市までは200kmほどの距離である。このため、日本との関係も密接であり、とくに下関市・福岡市などの北部九州や山口県との関係が深い。
現在は広域市に位置づけられ、道には属さないが、1962年までは慶尚南道に属していた。道から独立後も1983年6月まで慶尚南道庁の所在地であった。朝鮮の地方区分でいう慶尚道地方(嶺南地方)の中心都市である。
歴史
古代
後に狗邪韓国(金官国)そして任那となる地域は、弥生時代中期(前4、3世紀)に入り従来の土器とは様式の全く異なる弥生土器が急増し始めるが、これは後の任那に繋がる地域へ倭人が進出した結果と見られる[2]。 朝鮮半島における倭国の北端である『三国志』魏書東夷伝倭人条の項目における狗邪韓国(くやかんこく)の後継にあたる金官国を中心とする地域に含まれる。
古代は任那(伽耶)に含まれる地域である。新羅に合併された時に居漆山郡になり、統一新羅時代の757年に良州(現在の梁山市)所属の東莱郡を設置、現在の市街地地域に東平県、機張郡に機張県が東莱郡の下に設けられているが、地域の中心は金海にあった。
任那について倭が新羅や百済を臣民とした等と書かれている、広開土王碑日本軍改竄説が否定され、またいくつもの日本固有の前方後円墳が朝鮮半島南部で発見され始めたことなどから、近年ヤマト朝廷そのもの或いは深い関連を持つ集団によるこの地域の統治権、軍事統括権および徴税権の存在について認める様々な見解が発表されている。
中世・近世[編集]
李氏朝鮮(朝鮮王朝)時代、釜山地域にははじめ東莱県、のちに東莱府(東莱都護府)が置かれた。対日防衛の要衝であることから慶尚左道都万戸が置かれた。また、対日交易の拠点としても重要な位置を占め、15世紀始めには富山浦に日本人居留地である倭館が設置された(浦所倭館)。以後、釜山地域は三浦の乱や文禄・慶長の役など中世日朝関係の曲折の舞台となった。
朝鮮王朝と江戸幕府の交渉が復活すると、龍頭山一帯に対馬藩の草梁倭館が設置された。江戸時代、「鎖国」(海禁)時代の日本では、蝦夷地および琉球とともに、日本人が海外に居住できる限られた場所となった。
近代[編集]
釜山府庁
釜山税関
1877年の日朝修好条規によって朝鮮が開国した際、3ヶ所の開港地(他の2港は仁川・元山)の一つとなり、倭館はひきつづき日本人居留地となった。以後、釜山港の貿易港としての整備とともに、港湾都市釜山は発展することになる。1905年には鉄道(京釜線)が開通し、釜山駅が開業した。
この間、行政面では1895年に慶尚道が廃止されて東莱府(二十三府制)になったが、翌年に慶尚南道になり、道庁が釜山に置かれた。
日本統治時代の1914年には行政区画の整理が行われた。このとき、旧釜山府の日本人居留地一帯(釜山港周辺)を新釜山府(ふざんふ)として編成した。郊外部では旧釜山府の農村部と機張郡を東莱郡として改編した。
以後、日本統治下では1936・42年の二度にわたって釜山府は府域拡張を行っている。1936年には西面など(現・釜山鎮区などの一帯)が、1942年には東莱邑など(現・東莱区などの一帯)が東莱郡から府域に編入された。
第二次大戦後[編集]
1949年に釜山府は釜山市に改称した。1950年に朝鮮戦争が勃発し、ソウルが陥落すると、釜山は1953年まで大韓民国の臨時首都となった。釜山には戦争を避けた難民が多く移り住み、人口が増加した。
1957年には出張所を改めて区が設置され、1963年には釜山直轄市に昇格した。朝鮮戦争後は、金海郡の一部(現・江西区一帯)を編入するなど数次の市域拡大を行っている。1995年に釜山広域市に名称を改めるとともに、梁山郡内の旧東莱郡域(現・機張郡)を市域に編入した。2000年には文化観光部2000年式の告示に伴い、公式の英語表記がそれまでの Pusan から Busan に改められた(ただし釜山大学校など、現在も Pusan の表記が使われる場合もある)。
長らく市庁は港に近い旧市街地の古い建物を使っていたが、1999年に蓮堤区に市庁の庁舎を建設して移転、裁判所なども蓮堤区に所在している。
市庁跡地には超高層ビルの釜山ロッテタウンタワーが建設中で、2019年に完成する予定である。
市の人口は近年まで増加の一途をたどり、一時400万人前後に達したが、2000年以降徐々にドーナツ化現象によって減少傾向にあると言われる。
年表
1930年頃の釜山地図
- 1910年10月1日 – 慶尚南道東莱府が釜山府に改称。
- 1914年4月1日 – 釜山府を分割し、釜山港周辺の市街地を新たな釜山府とする。農村部の大部分は機張郡とともに東莱郡として編成、一部(左耳面・北面の各一部)は梁山郡に編入。
- 1936年4月1日 – 東莱郡西面および沙下面の一部を編入。
- 1942年10月1日 – 東莱郡東莱邑・沙下面・南面および北面の一部を編入。
- 1949年8月15日 – 釜山府が釜山市に改称。
- 1957年1月1日 – 中区・西区・東区・影島区・釜山鎮区・東莱区を設置。(6区)
- 1963年1月1日 – 慶尚南道釜山市が釜山直轄市に昇格。(6区)
- 慶尚南道東莱郡亀浦邑・沙上面が釜山鎮区に編入。
- 慶尚南道東莱郡北面および機張面の一部が東莱区に編入。
- 1975年10月1日 – 釜山鎮区・東莱区・東区の各一部をもって南区を設置。(7区)
- 1978年2月15日 – 釜山鎮区の北部と慶尚南道金海郡大渚邑および鳴旨面・駕洛面をもって北区を設置。(8区)
- 1980年4月1日 – 東莱区の一部を分離し、海雲台区を設置。(9区)
- 1983年12月15日 – 西区・北区のそれぞれ一部をもって沙下区を設置。(10区)
- 1988年1月1日 – 東莱区の一部を分離し、金井区を設置。(11区)
- 1989年1月1日 – 北区の西部と慶尚南道金海郡駕洛面・菉山面、義昌郡天加面をもって江西区を設置。(12区)
- 1995年1月1日 – 釜山直轄市が釜山広域市に改称。(12区)
- 1995年3月1日 (15区1郡)
行政と議会
市庁舎(蓮堤区)
- 市長
- 25代(民選7期):吳巨敦(오거돈)(2018年7月1日~)盧武鉉政権時代の2005年1月5日~2006年3月26日に海洋水産部長官を務めた。
- 24代(民選6期):徐秉洙(서병수)(2014年7月1日~2018年6月30日)海雲台区長(民選2期)の他、国会議員を連続4期(16~19代)務めた。
- 23代(民選5期):許南植(허남식、2010年7月1日~2014年6月30日)
- 22代(民選4期):許南植(허남식、2006年7月1日~2010年6月30日)
- 21代(民選3期):許南植(허남식、2004年6月6日~2006年6月30日)・・・04年6月5日の補選で当選。安相英前市長の残余任期を勤めた。
- 20代(民選3期):安相英(안상영、2002年7月1日~2004年2月4日)・・・収賄の疑いで逮捕・起訴され、拘置所に収監中の04年2月4日に自殺[3]。
- 19代(民選2期):安相英(안상영、1998年7月1日~2002年6月30日)
- 18代(民選1期):文正秀(문정수、1995年7月1日~1998年6月30日)
出所:市長室「역대시장(歴代市長)」、日本語版サイト「歴代市長」。
党派別議席数(2018年7月1日現在)
釜山広域市の風景
釜山の夜景