25-021. 杉の実 ISSE DEJEUNER AMICAL BENTO-SAKE の会 パリにて開催
2015年6月27日 フランス時間の13:00-16:00
パリの WORKSHOP ISSE (パリ 二区)で
杉浦実業株式会社に研修に来ていたアリスやニコラ、
パリ郊外で働いている大阪の友人の子息・・・と旧交を
温めました。
お食事も然ることながら日本で味わえないような珍しい日本酒を
何種類も味わいました。
特に元気に頑張っているアリスとニコラに再会できて楽しい時間を
過ごすことができました。
できればまた近い将来会えるような機会を作れればいいのにと願っています。
27-020 メルマガ「うごくもの うごかないもの」平成27年6月号発信
2015.06.15
25-020 メルマガ「うごくもの うごかないもの」平成27年6月号発信
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うごくもの うごかないもの
─ 人・企業・不動産 ─
平成27年 6月号
まぐまぐ ID 99461 (KS)
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● 旅の章 ●
先月から今月にかけて旅行づいている。旅の感慨をまず書いてみよう。
旅と人生・生とを平行に見て575をフェイスブックに書いてみた:
旅立ちぬ 行き先この世 ありがたきかな
そしたら読んでくれた友人がいて送り返してきた(返句=偏屈な性格のようなので偏句?変てこな句なので変句?)
風立ちぬ あればあの世の ありがたきかな(笑) MY
こちらも偏屈なので、お返しをした:
帰りきて 告げたしあの世の 有難さ
(有難さ、とあの世の存在を揺るがすような漢字での表現を用いている点にご留意)
フランスは行きたしと思えどという時代から、初めて飛行機に乗った40年以上昔に比べてもアンカッレッジを経由しないで直行便で行ける今は、やっぱり
遠いけど その日に着くから 近(ちこ)なった
確実に便利に楽になっている。
○ 巴里
5月月末から6月にかけては家族カレンダーでは大忙し、誕生日ラッシュである。
今年は特にフランスへ行ってお祝いをしようと計画していた。
そして予定通り6月11日から月末までパリに来ている。
現在このメルマガもパリで書いている。
7月9日には「巴里カフェ」という2ヶ月に一度の割合で集まっている会にこの旅行の報告と「日仏比較、家族、男女関係、同性愛、仕事・・・」についてのおしゃべり・議論を行うことにしている。
僕にとってはパリはひとつの定点観測の地点であるが、知人や友人に説明しようとすればするだけこの土地・都市における歴史の積み重なりに気がつくようになった。
「ローマは一日にしてならず」というが、時間と空間の交差を非常に面白く感じる最近である。
このような感触をいかにして説明すればいいのか、これはまた別の難しい点である。
○ 東京
たまたま友人の関わる二つのイベントが同じ時期に東京であったので土曜日上京して一日東京で過ごした。
(改めて新幹線というのが便利なものだと感じ入った)
ひとつは東京駅の横の丸善で行われた西永芙紗子さんの個展で、もう一つは文京区で行われた「NPO法人アンリ・ファーブル会」の総会でこちらは大学の同級生奥本大三郎氏が理事長をやっている。
絵画というものに造詣が深いわけではないがその作家の独特の感性に触れられる喜びというのがある。
特に色彩の使い方・組み合わせに楽しさを感じた。
個展会場の階で「ハイシライス」を食べた。
歴史的メニューらしい。
そんな都会的センスを味わったあと日暮里の街の中で自然に触れた。
有名な南仏の虫の詩人ファーブルの「昆虫記」を訳し続け自身蝶や昆虫を世界中追い求めているフランス文学者がファーブルの旧家を東京に再現している。
NPOという組織を運営していく財政的困難さはよく理解できたのでなんとか賛同者(=会員)を増やす協力をしたいと思った。
総会後の懇親会では虫マニアの年配者のオタク的かつ無邪気なおしゃべりと優秀な種族を作り上げていくナチス的優生学の恐ろしいドロドロしたお話とが交錯した奇妙な時間と空間ができていた。
○ タイム・トリップ
「アバウト・タイム」という映画は黒澤明の「生きる」を思い起こさせる。
自分の人生に関わる範囲の中で時と場所が分かればそこに戻ってやり直すことができる特別な能力を持っている一族の父息子のお話である。
息子はなんどか自分の恋人との出会いを修正して成功に至る。
時と空間との交錯、歴史と未来のつながりを感じた。
今という瞬間の長さ・広がり・重さ、集積性。黒澤の映画のようにこの世・今をあちら側から見ている。
そして自分がいなくなった後も人生が続いていくのを眺めている。
● 国の章 ●
争い・紛争・戦いの情報や映像を毎日厭というほど見せ付けられる。
その中心に「国」があるように感じられる。
「国」とは何なのか。
なにを持って「国」というのか。
イスラム国の出現で一層大きく問題意識に上った。
なんの為に「国」が存在するのか。
「国」が人を殺せという時殺すのは正義なのか。
そのために「死ぬ」に値するものはなになのだろうか。
命をかけて守るべきものがこの世に存在するのだろうか。
だが殺される危険があるときどのようにして自分の身を守ればいいのだろうか。
○ IS(イスラム国)
いかにして「国」が成立していくか、という「国」の形成起源に立ち会っているのかもしれない。
強力な力・意志、理想・理念、統一・統括する支配力・・・
近代歴史の西洋帝国主義文明が引いた国境線をドロドロに焼いてしまう「国」が持っている根源的な恐ろしい力を感じる。
これから(の歴史・文明)がどうなるのかという(もくもくと沸き起こる明確な)不安が地平線を覆い尽くす。
インターネットとBSワールドニュースによって成立するデジタル国家。
○ 日本とフランス
おそらく現代社会において比較的うまく行っている「仲良し中堅国家」でお互い相手国を評価し合う振りをするのがお互いのイメージアップに好都合な関係になっている。
芸術・文化を前面に打ち出してハネームーンを演出しているが、国の基本的構造では異なる点も多い。
フランスの国の成り立ちは「王」の首をギロチンで切り落として革命後「共和国」を産み出し、ヨーロッパ中を開放しようとした国である。
一方日本は天皇制を復興させて「維新」と名付けたお国柄でありそれぞれ「くにもと」お殿様の「おくに」ごとに内乱し政権内の勢力を争った国である。
原子力発電については両国とも同じ難しい船に乗り込んでいる。
在日のフランス人コロニーが、「フクシマ」を問題なし、under control であるとする日本の首相の言を信じる訳がなく、真っ先に本国に飛んで帰る。
フランス映画「グランド・セントラル」という映画を見ると「原子力発電」というのがいかに大変なものであるのかよくわかる。
日本でこのような原子力発電所の毎日の勤務・業務をもっと知らせるべきだろう。
毎日被爆放射線量を神経質にキリキリしながら現場で働く作業員の様子と現場の短期雇用で最低の労働条件で働く実態を教えられるとこれから何年も何十年も何百年も続けていくのには無理があるように思える。
この映画のタイトルのつけ方も不思議で、原発がテーマになっているのが分かっていながら恋愛映画のような売り方をしている。
「グランド・セントラル」という題名を聞いて「原発」労働者の話と推察できるだろうか。
一体誰がどういう意図で付けたのか?
まか不思議。
Central から原子力発電所 CENTRALE NUCLEAIRE へ橋渡しするのが翻訳者・翻案者の役割だろうに。
全ての情報を正確に捉えるよう常に注意深くあらねばなりません。
○ アメリカと中国
「大国」の理不尽ぶりと苦悩ぶりを見せつけている。
僕自身小柄なせいか「大きい」ものは好きになれない。
「大きい」ことで物事を押し付けてくる態度には、「大企業」「メガバンク」「巨人ジャイアンツ」「大鵬・卵焼き」は「だいきらい」。
「大」きらいである。
常に内乱・内戦を恐れる構造になっているのだろう。
「中」や「小」や「零」に共感を覚える。
大阪都構想をめぐる維新の会の選挙についても両陣営とも「大大阪」が最終目標になっているように思えたが、「大阪」の理念は東京にまけないように大きくなることではないだろう。
「東京都」とは異なる第二の「都」たとえば自由闊達な都市・商売繁盛イノベーションの街「商都大阪」として新たな反映を目指すことだろう。
関西共和国は不可能だろうか。
○ ロシアと北朝鮮
「国」の本質が独裁制にあることを如実に示しているサンプルである。
またひとりの人間がどこまでできるのか、という問を出し、ヒットラーという過去の歴史上の人物を想像しやすくしている。
プーチン皇帝と金皇帝の命がある限り国家体制は変わらないものなのかどうか。
ソヴィエト連邦共和国が共和国から帝国にどのように移行したのか不勉強にしてよく知らない。
共産革命で「共和国」は出来たのか?
○ 韓国と北朝鮮
多くの朝鮮民族の人たちは国家統一・民族統一は悲願のようだ。
「レッドファミリ」という映画を見ても、ほかの韓国映画を見ても底辺にその願いが感じられる。
北朝鮮の独裁者がいなくなればそれは可能かもしれない。
だが隣国中国は直接国境を接する民主国家を許容することができるだろうか。
中国とアメリカとをバランスよくあやつり従順な国を演じることができるだろうか。
○ その他
世界中にわれわれが名前も覚えきれないほど「国」がある。
我々の意識の中では「その他」として分類される。
その中で今注目している「国」は「北欧」の国々、「インド」であり「イラン(ペルシャ)」である。
ITUNES STORE で映画をレンタルしているが、映画の分野でハリウッド帝国主義から逃げ出して選ぶとき、リストに出てくる映画産出国は「インド」であり、「イラン」であり、最近特に関心を持っているのは「北欧」スエーデン、ノールエー、フィンランド、デンマークといった国である。
それぞれの国の置かれている地政学上の位置が映画一本から理解できる。
スエーデンのJAMES BOND ジェイムス・ボンドの名前は「ハミルトン」(映画のタイトルは「エージェント・ハミルトン/祖国を愛した男」)という。
敵対勢力はロシアも顔を出すがむしろ「アメリカ」である。
アメリカの民間軍事企業・民兵の乱暴さを摘発する。
日本ではあまり問題にされない点である。
別のジェイムス・ボンド5代目英国人ピアース・ブロスナンはデンマーク女性とローマで恋に落ち(「愛さえあれば」)二人で生活するというハッピーエンド。
いまや情報は溢れていると言われる。
しかし自分で必要な情報は求めていかなければならない。
そしてその情報を判断しなければならない。
いろんな「国」を勉強しなければならない、公式情報だけでなく民間の声・感触に触れておかなければならない。
生きた情報に接するようにしたいものだ。
(映画をみましょう)
● 虚構の章 ●
すべてはフィクションである。
作り上げられたストーリーである。
人は毎日ストーリーを紡ぎ出している。
毎日は、人間の知(知識)、人間の智(叡智)、時間と空間を軸にして人間が組み立てたストーリーである。
その枠組みなしでは人は生を、人生を、消化できない。
体内に組み込むことができない。
○ 二度目の「ほめ達」
地方銀行の講演会で「ほめる達人、西村貴好」さんを聴いた。
昨年も聞いているので二度目ということになる。
二度聴いても面白い、為になる、学ぶことが多い、刺激的である。
講演で一方的に教えられるという形式でなく出席者が参加させられるワークショップ形式なので説得力も抜群である。
出席者はお客様ではなくこの会の主人公だと参加させられる。
こんな風にこの会のおかげで褒めることがうまくなった。
粗探しはおそらく誰でもできる。
いいところを見出すためにはまず相手に関心を持たなければならない。
共感できなければならない。
まず相手を受け入れることだ。
相手と自分とは絶望的に異なる、違う存在であるという認識が出発点である。
「違う」ことを認め、相手を理解し共感を得るためには、相手は「間違って」いるのではないということ、「違い」は決して「間違い」ではないことを知る必要がある。
限られた枠にハメた見方でなく虚心坦懐に素直な目で見れば今まで見えていなかった、今まで見ていなかったものが、見えてくる。
それを伝えることだ。
全てのものが「原石」として取り扱われる。
磨けば光る。
光を当てれば光る。
光を当てなければただの石ころ、闇の中で誰にも見えないオブジェにすぎない。
価値を生み出すのは人が発する光である。
自分が光を出し価値を生み出すのである。
そんなことを一時間半の早口から教えられた。
○ 「はやぶさ」
地球がどのようにして出来たのか、太陽系はどのようになっているのか、そんな研究調査の一貫として「はやぶさ」プロジェクトがあるようだ。
小惑星まで「はやぶさ」を打ち上げその構成物質を採取して地球・日本にまで持ち帰るという任務を長年にわたって担当してきたJAXA名誉教授の的川泰宣氏のお話しを聴いたが、驚くほど人間臭く面白く楽しい話だった。
宇宙をやっていると「思ってもみないこと(想定外)が起こる」というのが前提になっている、というコメントは印象的だった。
フクシマ原発だけでなく原発問題を考えるのに、人知の過信は避けないといけないと確信した。
最後に宇宙のストーリーを一年のカレンダーとして語ってくれた。
最初に音があったのか、何があったのか、とにかくそれは「ビッグ・バン」と名付けられた。
138億年前のことという。
1月1日 ビッグバン
8月 太陽系
12月25日 (クリスマス) 哺乳類出現
12月31日午後 人類登場
12月31日 11時59分30秒 人類文明
○ 「熱中症」
朝のテレビで言っていました:
「熱中症」にご注意ください、特に高齢者は、と。
物事に熱中してはいけません。
熱くなってはいけません。
適度に、適当に。
みなさんクールにやってください。
クールとは、ネクタイをしないことではありませんので、念のため。
また熱中症は伝染するようです。
あれはイカン、絶対これをヤルンだ、など決め付けてしまうといろいろ「熱中症」と診断されます。
またあの人はこんな人だ、私はこんな人間だと、枠を前もって設定してしまうのは「熱中症」の症状でよく現れるようです。
インド映画「マダム・イン・ニューヨーク」で「決め付ける」「枠の中に押し込めるような判断をする」という英単語「judgemental」が使われますが、こんな単語は勉強になります。
(余談ですが、インドでは英語を話す、これは正しいか正しくないか?)
● 「その後」 ●
我々がいなくなった後はどうなるのだろうか。
舞台に幕が降り、スクリーンにエンド/終が映し出され、小説本の最終ページを閉じた後、その後どのようになるのだろうか。
我々は思い煩うことができるだろうか。
永遠という時間が「今」という瞬間になるのかもしれない。
「円卓」西加奈子
(引用)
ジビキは日に焼けた皆の顔を見、その圧倒的な変化に、怯えに似た感情を抱く。
自分だけが取り残されたような気分だ。
子供らが向かうのは、自分と同じ死であるはずなのに、彼らはまったく違う意志を持って、違う目的地に歩いていくように思える。
その行軍に、すでに成人の自分だけは、混ざれないのだ。
彼らは彼らのまま、凶暴に成長してゆく。
いつかこの子供たちが、今の自分と同じような気持ちになるとは、到底思えない。
この子らの延長に、自分のような人間がいるのか。
でも自分も過去、こんなに眩しかったのだろうか。
(引用終)
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