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25-017. 「うごくもの うごかないもの」5月号配信

25-017. 「うごくもの うごかないもの」 5月号配信

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うごくもの うごかないもの
ー人・企業・不動産ー
平成25年 5月号
まぐまぐ ID 99461

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第一部

○  「サービス付き高齢者住宅」
○ 儲け主義
○ 第十六回杉の実サロン 異業種交遊会 のご案内

第二部

○ 「クールビズ」の胡散臭さ
○ 40歳の帰国(昔話)

○ Facebook
○ 「和」についての考察
○ 5月1日
○ なぞなぞ クイズ

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第一部

○  「サービス付き高齢者住宅」

高齢者住宅がいろんなところで取り上げられている。
我が不動産業界やその周辺業界である建築業界では全体に市況がパッとしない中で
高齢者向けの住宅分野にあらゆる企業が注目し、参入しようとしている。
地域的には供給過剰といった声も聞かれるほどである。

 

そんななか、供給側からの視点でなく利用者の要望に応えるような記事が発表された:
週刊ダイヤモンドの4月27日、5月4日合併特大号の
親子で選ぶ「老後の住まい」老人ホームvsサービス付き高齢者住宅
という特集がそれである。

 

どれがいいのか? 高齢者住宅・施設徹底比較
介護サービスを上手に使いこなす法

都道府県別の「サービス付き高齢者住宅ランキング」が付いている。

今までは供給不足であったので、土地の有効活用の側面からのアプローチばかりが表面に出ていたが
これからは利用者へのサービスが問われることとなるだろう。

どのような住宅を選べばよいのか、どのような施設が最適なのか、
各人のレベル、生活スタイル、求めるもの、地域性に応じて、選別されていくことになるだろう。
そのような利用者や家族のニーズに応えた情報を不動産仲介業者としても提供していかないといけないのではないだろうか。
弊社としても、地域の人々に役立つ情報として、適切な施設や住宅をご紹介できるように、整備していこうと考えている。
ご相談に応じられるような体制を作っていくよう準備している。

 

早速 「どれのようにして 高齢者住宅・施設 を選ぶか。
介護サービスをうまく使うには どう考えればいいか。」
をテーマに説明懇談会を東成区の皆様を対象に開催することにした。
日時は 6月29日(土)10:30-12:00
場所は 杉浦実業第三ビル 二階会議室
参加費 無料

 

ちなみに講師には
このダイヤモンド誌で大阪府ランキング一位に輝いた「ケア・ブリッジ阿倍野」の運営会社
「介護研究会」の島内紀行社長にお願いしている。
具体的な実際的なお話を用意してもらっている。

 

「ケア・ブリッジ阿倍野」: http://abeno.care-bridge.jp/
「ダイヤモンド記事」: http://dw.diamond.jp/articles/-/5069

 

 

○ 儲け主義

前項で 高齢者住宅が脚光を浴びているということを書いたが、
同じ特集の中で様々な問題点が指摘されている。
入居に関するトラブル、貧困ビジネスとしての問題点などあるが、
土地活用としての問題点も指摘されている。
いわく「建設会社の甘い資産は要注意」ということらしい。
地主のリスクを列挙している。

 

われわれが最近直接耳にし感じる傾向としては、どうも金儲け主義というか、資本の論理というか、 この分野でうまいことしてやろうという人々の参入が増えてきていることではないだろうか。

 

弊社でもこの事業を直接身近に見せてもらっているが、
実際現場で介護の仕事に携わる人々の仕事ぶり、使命感、倫理観には敬服している。
大変なお仕事である。
腰痛など肉体的にも辛い労働も強いられる。
社会的に意義のある業種・業界だと思っている。

 

ところが、介護施設を収益物件として建築し、収益性・利回りといった数字を下に転売される話が出回っている。
もちろん投資家がそのような数字を下に投資するのは自由であろうが、
まだまだ歴史の浅い業界、このような数字自体どの程度精査されたものか、はなはだ疑問である。

 

とくに「サ高住」といった訳のわからない業界略語で称されている「サービス付高齢者住宅」について、これからは「サービス」とひと言で言われている内容が大きく問題になってくるであろう。
きちんと経営・運営されている施設かどうか、その内容にあった収益性なのかどうか、
それを中身にまで立ち入って判断できる専門家は現状ではそんなに多くないはずだ。

 

賃貸マンション・ワンルームの収益性・利回りを判断するのと全然別の観点・専門性が必要なはずだ。
建築会社ができるのか、仲介不動産業者ができるのか、一番大事な数字の判断をだれが責任もっておこなうのか。
さらに、30年とか長い期間の責任ある施設を見ていかねばならず、介護保険といった国の制度と結びついた施設であるので、 常にそれなりの勉強と覚悟が必要だろう。
ただ単に資本主義的(なんて書くと言葉が大げさかもしれないが)金儲け主義、それも瞬間風速的利益追求主義だけで判断すると 後で大きなしっぺ返しがあるように思える。

 

この分野におけるM&Aや資本参加の動きも盛んなようだが、現場で毎日高齢者を献身的にお世話している人たちがスムーズに働き続けられる環境を作る努力を怠っては、
結局誰の利益にもならず、自分たちの金の卵を潰してしまうことになる。
こんなことも忘れてはいけないのではないか。

 

○ 第十六回杉の実サロン 異業種交遊会 のご案内

2ケ月に一度の割合で、文化教養トークでの話題提供を行い、
その後懇親会で参加者同士の交流を図りネットワーク作りを行っています。

 

6月のサロンの概要は以下の通りです:

 

タイトル:岡崎太トークショー
日時:平成25年6月26日(水)14:00-16:00
場所:杉浦実業第三ビル 会議室(2階)
大阪市東成区中本3-16-11
岡崎太議員にインタビューする対話形式で、
以下のような内容を語ってもらおうという企画です。
1)新米議員として
2)最近の大阪市議会
3)最近の維新の会
4)これからの岡崎太
参加費:3,000円
お友達をお誘い合わせのうえ、ご参加ください。

 

第二部

○ 「クールビズ」の胡散臭さ

以前から「クールビズ」に対して違和感を持っていました。
なにか「胡散臭い」ものを感じていました。
ただそれをどう伝えればいいか、よくわかりませんでした。

 

今もまだきちんと語れるかどうか自信はありませんが、ちょっとまとめてみようと思います。

 

通常「クールビズ」と世間で言われていることは、
ただ単に「ネクタイを外すこと」「通常背広姿で仕事をしている人達がネクタイを外して仕事をすることが許される」そんなことでしょう。

 

まず期間を決めて、5月から9月まで、暑いシーズンにはネクタイをしないでもいいですよ、そんな感じでしょう。
中学生の制服の衣替えみたいに、冬服から夏服へ、誰がかけた号令か知りませんが、はい一斉に「クールビズ」というわけです。

 

昨日まで胸にあったネクタイを取り除いて、はい今日からこんな格好で失礼いたします。

 

それでは一体なんのために?
冷房の電力節約? 電気代節約? 関電のため?
だけど電力消費が減ったら関電は儲からないでしょうに。

 

なんで「ネクタイ」だけを目の敵にするのだろうか。
エルメスのネクタイを愛用する私には、まずそこが分かりません。
海外旅行をする時には、自分にだけお土産物を買って帰ります。
免税ショップや訪問地の美術館・博物館・観光名所でネクタイを記念に買うのが唯一のショッピングです。
男のおしゃれ、男の買い物ってそんな大したものがないではないでしょうか。

 

「ネクタイ」排斥運動のような「クールビズ」に、ネクタイ関連業界から損害賠償訴訟が起こらないのが不思議です。

 

ビジネスマンが一斉にネクタイを外して仕事場へと出かけて行きます。
今まで首元が引き締まって辛うじてきりっとしていたのが、なんかちょっとだらしなくはありませんか。

 

見たところ、本来あるべきものがなくなって、ちょっと間が抜けていませんか。

 

もともとなくていいものなら、なくしてしまえばいいではないでしょうか。
暑いのが嫌なら、背広なんかやめればいいではないでしょうか。
背広と違った涼しい洒落た礼服、仕事服、ビジネスファッションを作らないといけないのではないでしょうか。

 

沖縄ではみんなが納得する仕事着を着ているように、フィリピンのひとが着ている正式な服装スタイルがあり、
マレーシア航空シンガポール航空のクルーが洒落たコレクションを着ているように、なにか作り出せなかったものでしょうか。

 

ネクタイのない首元、だらしなく開けっ放しになった間の抜けた首元、
もしネクタイが必要ないというなら、もうちょっときりりとしたタイプのワイシャツを創作することはできなかったのでしょうか。

 

そう、「クールビズ」の発想の一番嫌なところは、その「引き算的発想」です。
ちじみ的発想、後退的発想です。
省けばいいような節約志向、省いて楽しようという傾向です。

立派なかっこいい男の姿をイメージして、男のオシャレを創りだす、新しいファッションを生み出す、
そんな想像力と創造力を喚起する機会となるべきだったのが、「クールビズ」にはまったくそんなことは感じられません。

 

ネクタイをするのは悪いことなのか、
ネクタイをしないことで一体何をしているのか、
ほかの人と同じことをしているだけなのではないでしょうか。

 

何のためにネクタイをしないのか、
なんのためにネクタイをするのか。

 

「クールビズ」という言葉、
「クールビズ」という、あるときに(そんなに歴史のある現象でもないだろうが)ある人が言い出した(どの程度議論されどの程度合意されたか知らないが)
こんな奇妙な習慣というか風俗というかこんなものを、なんとなく受け入れてしまうのは、へそ曲がり人間としては、どうも納得がいきません。

 

あまり暑くなってからでは、お前 ちょっと 頭冷やせよ と言われそうなので、まだまだ頭がカッカしない5月の今に書き留めておきます。
良識者、常識者のビジネスマン諸氏のご意見を伺いたいものだと思います。

 

最後に、大声で歓声!!
ネクタイ 頑張れ!!!

 

○ 40歳の帰国(昔話)

日本へ戻ってきたのは、1985年年末 40歳だった。

親父に勧められたからではあったが
フランス滞在に対しても、なんとなくもういいかといった気になっていたのかもしれない。

 

本当を言えば、こんな決心をした決め手になったのがなにか、よく覚えていない。

 

子供が二人、フランス人の奥さんがひとり、そんな家族で日本へ到着した。
僕にとっては戻ってきた、というところだが、
細君にとっては日本にやってきた、連れてこられた、そんな感じだったのだろうか。
3歳と1歳の長女と次女にとっても、わけがわからなかっただろう。

 

長女はフランスで幼稚園に入園したばかりで、ある意味社会生活の第一歩を踏み出していた。
次女は言葉を話すに至っていなかった。
今の時期なら日本へ帰っても子供たちの学校の問題はそんなに大きな問題にならないと考えたのかもしれない。
子供たちがもっと大きければ日本に帰ることは考えられなくて
フランスでの教育に乗っかって行ったかもしれない。

 

日本へ帰って長女は近所の清友幼稚園へ通った。
次女を自転車の前に、長女を後ろに乗せて家内が毎朝送っていった。
どこの家族でもやっていることだった。
ただ言葉が不自由というか、当初はほとんどわからないし、
説明を受けるときには当然日本人の父親が出ていかなければならなかったし、
それは当たり前のことだと認識していた。
しかし、その当時入園式に出席した父親は私一人で
若い母親たちの中ではなはだ場違いな感じであった。

 

 

子供のことでの自慢は、出産に立ち会ったことである。
長女の時も次女の時も、フランスでは立ち会うのが当たり前のようであった。
だから日本で三女が生まれる時も立ち会った。
ただ4番目の長男の時は手術が必要ということで立ち会えなかった。

 

日本とフランス、こんな狭間で子供達ひとりひとり感じるところがあるようだ。
親の無意識の人生が子供たちに影響を与えてしまう。
ああすればよかった、こうすればよかった、
しかし人生変えられるものでもない。
なんとなく申し訳ないという気がする部分がある。
自分が自分勝手なことをして生きてきたからだろう。

 

 

○ Facebook(フェイスブック)

 

正直フェイスブックは面白い。
覗きみ趣味を満足させてくれる。
いろんな人が身近な情報を発信してくれる。

 

なんとなく世界中につながっているような気になる。
楽しいイベントに参加しているみたいな気になる。
「友達」の輪が広がっていく、いい人たちと知り合いになれる。

 

一定の知り合いになり相手のことがわかってくると
掛け合い漫才のように、あるいはテレビ会議のようにフェイスブックに楽しいコミュニティが形成される。
松尾芭蕉が旅先で知り合いの俳人たちと集まって連句を詠んだように
フェイスブックが機能することがある。
日本の歴史をもっと遡れば万葉時代の歌会を思い起こすこともできよう。
このような連鎖は日本人のメンタリティにあっているのかもしれない。

 

自分ではなかなか腑に落ちなくてモヤモヤしたまま来ている点がある。
「友達」という概念です。
アメリカ的というかすぐに「友達」になるような感じで
そんなんでいいんだろうか、という疑問です。

 

自分にとって「友達」とは?など、いらぬことを考えた。
100人、200人・・・1000人友達を持つことは可能なのだろうか。
自分が関心を持たないあるいは持てない人を「友達」と称していいのだろうか。

 

確かにフェイスブックにおける「友達」という考え方もあるのでしょうが・・・

 

○ 「和」についての考察

 

どうなんだろうか、
みんな同じようになれば幸せなんだろうか、
同じようになることがいいことなんだろうか。

 

日本は「和」の国だと言われる。
同じ考えで、同じ方向へ走っていって失敗した時代もある。
おそらく同一は「和」ではないのだろう。

 

金太郎飴をどこで切っても金太郎、これでは面白くもないだろう。
北朝鮮の公式発表を聞いているようで
昔なら「大本営発表」というところだろう。
みんなが同じことを言いだしたら気をつけたほうがいい、優秀な経営者はほかの人が反対しているのを押し切って決断して優れた商品を世に送り出した、 そんなことが経営学の本に書いてあったりする。
おそらく私たちは同一的なクローン人間にはなりたくない。
自分の限られた可能性の中かもしれないが、
自分自身の音色を出して、自分の生き様の震えを響かせて束の間の人生を生きていける社会を求めているに過ぎない。
それを取り敢えず「和」「調和」「ハーモニー」といった言葉で表すとする。

 

そんなことを考えると、
「和」を成立させる基本的な要素が「違い」であることに気付く。
異なったものが並立することによって「和」が醸し出される。

 

4人のテノールが、クローン人間さながら、同じ声で同じ旋律を見事に歌ったとしても、そこには「調和」「ハーモニー」は生まれない。
ところが、ジョンとポールとジョージとリンゴが、それぞれ勝手に自分のパートを歌うとき「ハーモニー」が生まれ「和音」が耳を喜ばせる。

 

50のトランペットが一斉に見事に同じように同じ音を吹奏すれば、
軍隊が一気に前進するためのアドレナリン増幅の作用はあるだろうが、
人の精神を和やかにするとは限らない。
チェロの弦の音、クラリネットの響き、打楽器の震え、
個性豊かな多数の楽器がそれぞれ異なった音色で異なったメロディーを奏でることで
「ハーモニー」が醸し出され、オーケストラができる。
となりの演奏者の出す音を耳にしながら、自分のパートを演奏する。
「差異」「違い」の幅、震え、これが個性ではないだろうか、生きていることの意味ではないだろうか。
「同一」のものがたくさん集めてもその総和は「和」にならない。
「同一」のものをいくつ掛け合わせてもその積は「和」にならない。

こんなことを考えた。

 

○ 5月1日

 

季節の移り変わりについて日本人は非常に敏感で大事にしているが、
外国人はそんなことは理解できないんかのように信じている国粋主義者がいる。
しかしどこの国どこの民族にもそれぞれ季節の移り変わりに対して感受性を持っている。

 

5月1日はメーデーの日ですが、フランスでは「すずらん」の日でもある。
朝から街角ですずらんの花が売られている。
専門の花屋さんでなく、郊外から普通の人が採ってきて小遣い稼ぎにその日だけ商売で売っている。
通りがかる人はそれをもって友達を訪問し食事を一緒にする。
5月1日はそんな日なのだ。

 

われらがウイッキペディアにどんなことが書いてあるか見た。
フランスでは、花嫁にスズランを贈る風習がある。
また、メーデーにスズランの花を贈り合う。
フィンランドの国花であり、スウェーデンのイェストリークランド地方の花でもある。

 

○ なぞなぞ クイズ

 

私の大好きな作家は伊坂幸太郎です。
どの小説を読んでもそのストーリーテラーとしての腕、洒落た言い回し、いつも楽しく読めます。
村上某のようにスノビッシュに気取ることはありません。
足が地についています。

 

伊坂幸太郎 いいですよ 読んでください。
(本屋で本を買って、著者に印税が入るように)

 

そんな彼の最近作「ガソリン生活」で見つけたなぞなぞです。
さて問題です:

 

北から車が五百台、時速五十キロで出発しました。
南から車が五百台、やっぱり時速五十キロで出発しました。
さて、どの場所で出会うでしょうか。

 

答えは 来月号に出します。
本を読むのもいい考えです。

 

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